■九谷焼の歴史

 ―九谷焼の誕生 17世紀後半―

江戸時代前期は、九谷焼が誕生した時期です。

九谷焼は、大聖寺藩を治めていた初代藩主の前田利治(まえだとしはる)のもとで

1655年に作り始められた磁器です。

鉱山開発の最中に、領内の九谷村で磁器の原料となる陶石が発見されたことが

きっかけとなり、伊万里焼で有名な有田(佐賀藩)の技術を導入して、磁器の

生産を始めました。陶石の産地となった九谷村に、磁器を焼くための窯を築い

たことで、その地名にちなんで「九谷焼」と呼ばれるようになりました。

 

特にこの時期に作られた九谷焼は、後世『古九谷』古い九谷焼—と呼ばれ、

その青手や色絵の美しい絵付けのスタイルとともに、磁器の職人や知識人たち

の間で特別視される名作として、大切に受け伝えられてきました。

しかし、古九谷は制作開始からおよそ50年後に、突然生産が終わってしまいま

す。大聖寺藩の財政難による窯の資金不足や、藩主の代替わりをきっかけとす

る政策の方針転換など、制作終了の理由はいくつか想定されますが、明確な

証拠は見つかっておらず、今日まで「謎」として残されたままです。

 

 ―九谷焼の復活 19世紀―

江戸時代後期は、古九谷の制作中止以来途絶えていた九谷焼の制作が復活し、更

には赤絵のスタイルが誕生した時期です。この時代に生まれた九谷焼を、「再興

九谷」と呼んでいます。

古九谷の制作中止から約100年後、大聖寺藩の「親元の藩」である加賀藩の城下町

金沢で、磁器生産が再開されました。京都の磁器職人の技術指導によって、加賀国

(現在の石川県) で再び磁器が作られたのです。この試みは短期間で終わりを迎えま

すが、新たに伝えられた技術と古九谷の独創的なデザインを結びつけ、九谷焼の

復活を目指す人物が大聖寺に現れます。

 

吉田屋伝右衛門\(\)。大聖寺の城下町に住む富裕な商人であった彼は、九谷焼、なかでも

青手古九谷の復活を強く願い、1824年に、自らの財産を投じて古九谷の窯の隣に磁器

制作のための窯を築きました。その窯は彼の屋号(店の名) にちなんで「吉田屋窯」と

呼ばれ、古九谷に迫る芸術性と品質で、当時の富裕層や知識人から好評を博しました。

しかし採算を度外視した品質の追及は吉田屋窯の経営を苦しめ、経営建て直しのために

交通の便が良い山代地区に窯を移したものの、7年後の1831年には閉鎖に追い込まれま

した。

 

山代の吉田屋窯は閉鎖直後、現場の支配人であった宮本屋宇右衛門\)へ引き継がれ

「宮本屋窯」として再開します。宮本屋窯は、加賀藩の磁器の影響などから、赤絵の

スタイルを採用しました。主任の絵付け職人飯田屋八郎右衛門が、赤絵の緻密な描写に

秀でたことから、宮本屋窯の赤絵作品もまた高い評価を受け、吉田屋窯と同じ民営の

窯でありながら20年以上の操業を続けました。

 

\(吉田屋窯の閉鎖で衰えた青手の九谷焼制作でしたが、1848年、大聖寺藩が新たに築い

た「松山窯」で再び盛んになりました。明治政府によって藩の組織が解体されるまで

の間、後の時代に活躍する職人を育てながら、松山窯は青手の九谷焼制作に取り組みま

した。

 

 ―名工の誕生と産業隆盛 19世紀末から20世紀前半―

明治時代~昭和時代前期は、窯元の職人たちが作家として自立し、さらには江戸幕府を

継承した明治政府の産業振興により、九谷焼の輸出産業が盛んになった時期です。

明治維新を境に、江戸幕府から明治政府へと政権が移ったことにより、窯元は藩からの

支援が得られなくなり、自活による経営が迫られるようになりました。

 

旧大聖寺藩の職人たちは、作品の品質をさらに高めることで、「窯元の中の一職人」から

「美術工芸品の作家」となって名を挙げようと努力しました。

彼らの中から、絵付け技術の指導的立場で次世代の作家をリードした竹内吟秋\(\)・浅井一毫

兄弟や、書や食のジャンルで幅広い活躍をした北皇子魯山人に陶芸を教えた初代須田菁華\(

などの名工が輩出されました

 

一方で、旧加賀藩の職人たちは、輸出産業に活路を見出し、金彩をふんだんに施した

赤絵の九谷焼を中心に、欧米向けの作品を数多く生産しました。彼らの中心となったのが

赤絵と金彩による精密な色絵付けで名高い九谷庄三です。

 

 ―現代芸術としての九谷焼 20世紀後半―

昭和時代後期~現代は、伝統的な美術工芸品としてのブランドを確立した九谷焼が、現代

芸術の要素を取り入れて、「工芸品」の枠を超えた「美術品」として制作されるようになっ

た時期です。また、新たなライフスタイルにあわせた多種多様なデザインの器が生み出され

ることも、現代九谷焼の特徴です。

                         《石川県九谷焼美術館 九谷焼とは から》

古九谷 kokutani

明暦元年(1655年)~

 

大聖寺藩初代藩主前田利治公が命じ、

九谷村で焼かれたもので、青(緑)、黄

赤、紫、紺青の五彩を用い、絵画的に

豊かに表現された様式。狩野派の影響

を受け、のびやかで自由な線で描かれ

大胆な意匠と絢爛たる色使いは特徴。

 

木米 mokubei

文化4年(1807年)~

 

古九谷廃窯約100年後に、加賀藩営で

金沢に春日山窯が開窯。京都より招か

た文人画家『青木木米』の指導で、

全面に赤を施し、五彩で中国風の人物

などを描写した様式。

 


吉田屋  yoshidaya

文政7年(1824年)~

 

豪商吉田屋伝右衛門が再興九谷を目的

とした窯で、青手古九谷の塗埋様式を

踏襲した様式。青(緑)、黄、紫、紺青

の四彩を用いて、様々な文様や小紋を

駆使し、全面を塗り埋めた重厚感のあ

る作風が特徴。

 

飯田屋 iidaya

天保2年(1831年)~

 

吉田屋窯を引き継いだ宮本屋窯で焼か

れた様式。赤で綿密に人物を描き、ま

わりを小紋等で埋め尽くし、金彩を加

えた赤絵細密画で、主工飯田屋八郎右

衛門から八郎手とも呼ばれている。


 庄三 syoza

 天保12年(1841年)~

 

古九谷、吉田屋、飯田屋、金襴手のす

べての手法を融合し、名工九谷庄三が

確立した彩色金襴手の様式。明治以降

は「ジャパンクタニ」として産業九谷

の主流となった作風。

 

 永楽 eiraku

慶応元年(1865年)~

 

加賀藩分家の大聖寺藩が開いた九谷本

窯で焼かれた様式。京都の名工永楽和

全による金襴手手法で、全面を赤で下

塗りし、その上に金のみで彩色した豪

華で洗練された作風。

 


 青粒 aotibu あおちぶ

 

大正時代に広まった彩色の技法。地色

の上に、青粒と称する細かい緑色の点

の盛り上げを並べる鮫皮のような手法.

粒の大きさ、色、間隔の均一さで緻密

な技法が要求される。青粒の他に白粒,

金粒もある。落ち着いた重厚感と品の

良さが備わっている。

 

 彩釉 saiyu さいゆう

 

赤、緑、黄、紫、紺青の五彩の釉を、

うわぐすりのように用い、器全体を塗

り埋める手法。2種類以上の釉薬を重

ねて塗ることにより、段階的に色彩の

変化を楽しむことができ、優美で鮮や

かな絵柄が描き出される。

 


 釉裏金彩 yurikinsai

 

普通の金彩が釉薬の上に金を貼り付け

るのに対して、金粉や多彩な形にカッ

トした金箔を貼り、その上に透明な釉

薬を掛けて焼き付けた絵柄。釉薬を通

して金が浮き出てくるため絵の調子が

やわらかくしっとりとした質感があり

品の良い輝きがある。

 

 銀彩 ginsai ぎんさい

 

銀箔を貼り付けた上に透明釉や、五彩

の釉薬を塗り、焼き上げた技法。銀箔

が剥がれないうえ、錆びないという特

性をもっている。釉裏金彩と同じよう

に、絵の調子がやわらかく、抑えた質

感で上品さが漂う。